敗者は勝負をするから生まれる。

中学生の頃にふと考えていたことを思い出したので、備忘録がてらブログを書きます。

 

あれはたしか、部活動の大会前夜でした。

何の大会だったかは忘れてしまったけど、重要な大会だったと思います。

僕はどうしても負けたくなくて、おばあちゃんの部屋にある仏壇の前へ行き、明日の大会で勝てるよう、お祈りをしました。

手を合わせ終え、リビングに戻ろうした時、ふと思うことがありました。

 

「明日の試合の相手も、自分と同じように神様にお祈りをしているのかもしれない。」

「自分が負けたら相手は勝てるけど、自分が勝ったら相手は負けちゃうんだ。」

 

その瞬間、かなりの違和感を覚えました。

10年後の今でも、その衝撃を覚えているほどです。

僕は明日の大会で負けたくない。

だから神様にお祈りまでした。

でも、もしかしたら、対戦相手も僕と同じように神様にお祈りして、どうしても負けたくないと思っているかもしれない。

そんな相手を、僕は倒したいのだろうか?

 

「自分と他人の戦い」というより、「自分と自分の戦い」のように思えて仕方がありませんでした。

部活動を完全にナメた、練習もろくにしてこなかったような奴が相手なら、そんな奴は負けて当然だと思えます。

勧善懲悪の分かりやすい話です。

しかし、自分と同じように頑張ってきた、あるいは自分以上に頑張ってきた相手と勝敗をつけることになるかもしれない。

そんな相手を負かしたいと思えるのか。

僕は思えませんでした。

自分は敗者になりたくないし、相手も敗者にしたくない。

そう考えた結果、「勝負をするから敗者が生まれるんだなぁ。」という結論になりました。

誰が聞いても当然だと言うような結論ですが、当時の僕にはこれが衝撃的でした。

 

勝者になりたいと願うのは、他者が敗者になるのを願うということ。

敗者が現れるのを止めるには、勝負を止める以外に方法がないこと。

敗者を生むことを取るか。

勝ちを諦めることを取るか。

勝ちに目が眩んだその瞬間から、「全員で勝とう」なんて甘いことを言うことはできなくなるのです。

残酷な世界なんだなと思いました。

 

あれから約10年が経ち、24歳になりました。

今では、冷酷な世界だからこそ、温かさも生まれるのだと思えるようになりました。

皆んなが同じような人間で、同じような人生を歩んでしまったら、面白味も深みも生まれません。

多様な人間が強制的に混ざり合うから、汚くなったり綺麗になったりします。

例えるならボールすくいです。

個性的な色と大きさを持つそれぞれのボールたちが、一つプールの中で浮かんでいる。

スペースの空くとこがあれば、ギュウギュウになるポイントができるし、暗い色で固まるとこができれば、明るい色で固まるところができる。

絵の具のように、全部が均一に混ざって、限りなく黒に近い1色になることはありません。

1人として、他の誰かと全く同じ人間になることなんてできないからです。

できるとしたらクローン人間くらいでしょう。

 

ネガティブな物が見つかったのなら、必ずどこかにポジティブな物があるはずです。

それを見つけ出すこと、それを人生の糧にすることが、生きていく為に必要なスキルなのだと思います。

 

素敵な人間が勝ったなら、きっと勝ちを独占することなく、勝ちをシェアしたり、勝ちを循環させたりするはずです。

僕はそういう人間になりたいです。

今はまだ情けないほど弱いです。

謙虚さを忘れることなく、強くなります。

頑張ります。